表現の自由に関する雑感を書きます。
なぜ表現の自由が必要か
なぜ表現の自由を守らなければならないのか。
それは、誰もが正しいことを言えないからです。誰もが偏り得るからです。
政府の公式な発表も、メディアの報道も、国民の投票による選挙結果も、世論も、一定の信頼が置ける、尊重すべきものではありますが、だからといってそれが「真実」とは限りません。
あらゆる尤もらしいことが間違っていることは往々にしてあります。
特に政治については、ある人にとっての「正しい」や「中立」が、あくまで自分の立場から見た主観に過ぎないことが多く見られます。
「思想の自由市場」論
そもそも、絶対的に正しいことなど、世の中にどれほど存在しているのでしょうか。
あったとしても、それは極めて少ないと思います。
絶対的に正しいと信じられていることについても、やがて真逆に転じてしまうかもしれません。
今も未来も永劫に変わらない真理があったとしても、そもそもそれを証明する術はありません。
だとすれば、あらゆる言論は、それがひっくり返される可能性を常に残しておかなくてはならないのです。
そのためには、いわゆる「思想の自由市場」が必要であり、思想・言論・表現を守るための不断の努力が必要なのです。
検閲について
検閲の禁止も、検閲が、言論が思想の自由市場で試される前にそれを排除するものだからしてはならないのです。
もし検閲が正当だとして、それを実行する主体は、誰なのでしょうか。
一体どれほどの人物ならそれをやる能力があり、資格があるのでしょうか。
少なくとも私はその立場を負えません。
「真理」に辿り着くために
「真理」とは必ずしも発見し手に入れられるものではありませんが、「真理」に少しでも近づくために、自由な表現・言論が必要なのです。
多様で活発な言論が行われ、あらゆる言論が絶えず試され調整されるための市場を保全していなければなりません。
言論を封じずとも、言論には言論で対することで、真理に近づいていきます。
経済と同じく、市場で競争することで言論も磨かれ発展していくと考えます。
検閲や言論を封殺することは、我々が真理に到達する道を断つことになってしまいます。
民意と選挙
民主主義国家において、国民全員の総意として尊重すべき「民意」を導くために言論という過程が必要で、「民意」を明らかにするために選挙という儀式があるのだと考えます。
「民意」とは、いつでも間違っている可能性があるのですから、選挙を経たとしても、それはかりそめであり、あくまで一時的・暫定的なものに過ぎません。
だから定期的に選挙が必要ですし、過程として活発で多用な言論が必要です。
終わりに
私が、仮に賛同しないものであっっても他者の主張や言論についてとにかく「寛容」を旨としているのは、私が「間違い」と断じることが不可能だからです。
自分が間違っているかもしれないという謙虚さがあればこそ、他者の言論を尊重し、表現の自由を重んじるものだと思います。
本稿をまとめると、全ての人間が不完全だから表現の自由を守らなければならない、というのが私の考えです。
表現の自由を守るべき積極的な理由は、活発な言論・表現を繰り返すことによって「真理」に近づけるからです。
表現の自由を守るべき消極的な理由は、そもそも他の言論・表現を封じるための絶対的な「真理」が存在しないからです。
以上が、表現の自由に関する私の単純な理解です。
ありがとうございました。