「公平」な報道は可能か:「マスゴミ」批判を考える

メディアに期待し過ぎだ

そもそも、「公平」な放送などあるのでしょうか。

そして、それは実現できるのでしょうか。

「マスゴミ」などと罵り、強い語気でメディア批判を展開する人たちは、メディアに期待しすぎていると私は思います。

各放送局、各番組、果ては各VTRや発言において当然のように実現されることが要求されます。

しかし、私は放送において政治的な公平など実現されないと思っています。

重要なのは、「メディアは偏り得る」という前提を共有することです。

旺盛なメディア批判を繰り返す人々は、メディアが偏ると思っていない「無垢」な市民を守ろうという、ひとえに「善意」なんだと思います。

その使命感は輝かしいものだと思います。

しかし、「無垢な」市民だけでなく、マスコミの批判者もまた、メディアが客観的で公平な報道を行えるものと期待してしまっているのです。




「政治的公平」は可能か

たとえば、トップニュースに何を持ってくるか、どのニュースをどれほどのボリューム(放送時間)で報じるかなど、ニュースを組むためには、どこかで主観を介在させてねばなりません

たいていの場合、ニュースの順番や関係する人物の発言回数や発言時間など、どこかしらの切り口から批判することが可能です。

誰もが納得できる厳密な「政治的公平」の実現を志向すれば、それをその日あったニュースを報道するのに間に合わせて調整するためには、日々膨大な労力を投じる必要が生じます。

存在するのか、定義できるのか、実現できるのか疑わしい、テレビにおける「政治的公平」を実現するために膨大なリソースを日々投じるのはばかばかしいことだと思います。

そもそも、私は厳格な「政治的公平」が実現できるとは考えていません。

これが私の「放送法における『政治的公平』の要求を撤廃せよ」という主張にもなってきます。

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私はテレビに「政治的公平」を要求しない

私は、各局の内部で緩やかに「政治的公平」が実現されればそれでよいと思います。

たとえば、〈右〉と〈左〉それぞれの視聴者をターゲットとして意識した報道番組を一つずつ各局が持つなどすればそれでよいと思うのです。

もっといえば、それぞれの放送局が、その後ろにいる新聞社のイデオロギーをそのまま背負って放送してもよいとすら思っています。

民放は、広告収入に立脚しているため、収益の最大化のためには、特定の思想の人のみを対象に放送を行うことはできません。

〈右〉あるいは〈左〉に極端に振れると、その逆のイデオロギーの視聴者を失ってしまうリスクがあるため、個別的には偏っても、結果として放送局全体としては中庸に収斂すると考えられます。

仮に民放がみな特定の主張に寄ったとしても、NHKがそのカウンターに立つので問題はありません。

日本は公共放送(NHK)と民間放送の二元体制ですから、民放が極端に振れたとしたら、NHKが「公共放送としての使命」からバランスを取ります。

かりにNHKが歯止めになれなかったとしても、国民がメディアが偏りうることを前提としている制度(放送法)であればそう問題ではないと思います。

メディア全体が特定の主張に偏ったとしたら、今度はメディア対国民の形になります。



問題は「公平」が信じられていること

私は、報道が無意識に偏っている、そして制度上は偏らないことが期待されていることが問題だと思います。

現在は、放送法の「政治的に公平であること」(放送法4条)という規定ゆえに、国民は潜在的に、「公平」の実現を信じていると思うのです。

しかしながら、メディアの報道は偏り得ます。

先ほどは個別には偏るが「放送局全体としては中庸に収斂する」と述べましたが、まれにメディア全体としても偏る場合もあると思います。

たとえば、先般の米大統領選では、日本のメディアは総体として反トランプに偏っていたと思います。

また、英国のEU離脱の国民投票についても、日本のメディアは無意識に残留支持に寄っていると感じました。

このような、社会としてなんとなく正義が定まっている事柄については、メディア全体として一方の立場を取ることがあると思っています。

この場合についても、我々が「政治的公平」の実現を信じていなければ問題が緩和されます。

私は、メディアは偏るのに、制度の上では偏らないと信じられている現在の状況が最悪だと思っています。

メディアのうろんな正義に不利益を被らないためにも、放送法の「政治的公平」を撤廃することは必要だと思います。

私はまた、テレビがイデオロギーを出せるようになり、各報道番組で自由な立場から議論されるようになれば、テレビが復活するのではないかと淡く期待しています。




敵対的メディア認知

敵対的メディア認知(hostile media perception)とは、マス・メディアにはバイアスがかかっており、そのバイアスが人々に悪影響を与えていると認知する傾向のことです。

敵対的メディア認知は、その視聴者の党派性が強く、強固な主張を持っているときに特に大きくなります。

〈右〉に振れた人からすればメディアは〈左〉に寄っていてけしからん、となりますし、

〈左〉に振れた人からすればメディアは〈右〉に偏ってとんでもない、となります。

この「公平」の基準は、客観的な中間点――客観的な中立が存在がするとして――ではなく、「自分」を基点としたものでしょう。

すなわち、自分の意見と違うから、「偏っている」と強弁しているに過ぎないのです。

マスコミ批判は、多くの場合単なる敵対的メディア認知ではないでしょうか。




おわりに

NHKは、〈右〉〈左〉の双方から批判を受けます。

〈右〉の人からすれば、NHKは「左巻き」に見えています。公共放送であるにもかかわらず、NHKを「反日」や「売国」とするレッテルを目にすることもあります。

〈左〉の人にとっては、籾井前会長に関連した批判のように「権力に迎合している」となります。NHKは、「大本営発表」や「政府広報」の誹りを受けることがあります。

NHKが〈右〉と〈左〉の両方から「偏っている」と批判を受けるのは、かえってNHKが報道機関として健康なことを示しているのかもしれません。

ほとんどの「マスゴミ」批判は自分の主張が極端なだけ

大事なのは「政治的公平」など無いと心得ること

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